ヒトのブログ

主に日記を書いています。

20191122_本を目指す

本を目指します。

ブログから本を目指します。

本というのは、普通に書店で売られているものに限らず、電子書籍だったり、印刷可能形式だったりという感じのテキストを含むニュアンスで使っています。

 

今の状態だと、テーマがブレブレなので、文章をジャンル分けしていく必要があります。

「分類」することで、情報が整理され、有益な情報はより有益になり、さらに集約され、完成されていくということは想像に難くないでしょう。

 

ごみ捨て等で、「混ぜればごみ、分ければ資源」という標語がありますが、まさにそれですね。

ブログにおいてはタグやカテゴリ分けということが有効かもしれません。

 

そして、最終的に完成したコンテンツというものは、自分で管理することもできますが、特に問題が無ければ、ブログ、ホームページあるいは電子書籍といった形でオープンにすることができるのです。

科学においては大学や研究所の論文というものは公開されておりまして、誰でもアクセスすることができます。

このおかげで、私たちは「万有引力の法則」とか「力学の法則」といったものを、最初から組み上げる必要はなくなるわけです。すでにそういった研究発表の論文があるわけなので、私たちは、「その続きから」研究活動を進めることができるのです。

ポケモンのゲームで、現状の進行状況のセーブ機能のコマンドを「レポート」というのは、そういった意味があるわけです)

 

要するに、自分が頑張って作った文章というか、本というものは、自分で抱え込む必要が無いわけです。

自分ひとりで管理する必要がなくなるので、気楽なんです。

例えば、義務教育でずっと教科書を購入してきましたが、これは置き場所に困って、最終的には処分することになっているかと思います。

これがもし、図書館の本のように共有されているものだったとしたら、どうでしょうか。

置き場所に困るようなことは少なくなると想像できますよね。

つまり、自分のアイデアやメモなどを集約して、本などのコンテンツに育てることができれば、皆で共有できるため、自分だけで扱っていたころよりも楽になるということです。

 

だから僕は本を目指します。

というか、よく考えてみると、ブログの時点ですでに本だった気がします。

だって、自分の端末にテキストデータを保存する必要がありませんからね(はてな側のサーバに保存される)。

ある意味恩恵は受けているわけです。

 

そのうえで、さらに情報を分類して、集約化し、完成させれば、「あとは皆が育ててくれる」という状態にもっていけると思います。

 

なので、本を目指します。

 

・・・

この記事について、最初はいろいろ見出しとかも凝ったりして、進めていたのですが、結論までの道のりを見失ってしまいました。

なので、単刀直入に要点だけ言うようにしました。

そして、後は幹や枝葉が増えたのです。

 

「分けること」が大事ということもできますが、「目的を明確にする」ということが基本のようにも思いました。

お弁当専門店のヒライは、さすが専門店ということで、とてもおいしいっていうのと似ていますね。

 

ということで、本を目指します。

そのために、「テーマを明確化すること」「内容をジャンルで分けること」「共有すること」ということを、今後意識していければと思います。

 

以上です。

 

 

20191121_有益化のために

ようこそおいでくださいました。

今回は「有益化のために」ということでお話させていただきます。

 

突然ですが、「価値のあるモノ」って、どういうものだと思いますか?

一説には「どれだけの人に求められるか」ということが「価値」の定義だとされています。

(何かのテレビ番組かの動画で、名前を思い出せないのですが、タレントの方が言われていました)

この定義により「価値のあるモノ」を生み出したい。そのように、私は今、思っています。

 

やることは、至ってシンプルです。単純明快。

それは、「より多くの人に必要とされるものを生み出す」ということです。

・・・言い換えます。「より多くの人が利用できるようなコンテンツを生み出す」、これならどうでしょうか。少しはわかりやすくなったかもしれません。

 

例えば、今私が書いてるこの日記です。

今日の日記は喋り口調でやっていることがおわかりいただけると思います。

昨日の時点で、「喋り口調というのがいいかもしれない」というアイデアはあったのですが、昨日の日記との違いは、おわかりいただけますでしょうか。

 

それは、雰囲気です。

昨日の日記の文体を見返したところ、今書いている文章とは雰囲気が違うことがわかります。

昨日の日記は「インタビューのような口調」になっていました。

取材者がいて、それに受け答えするような口調ということが感じられます。

 

今書いている文章では、どうでしょうか。

こんな問いかけは、昨日の日記には一度もなかったものです。

この雰囲気は、昨日も言っていましたが、キングコング・西野さんの『西野亮廣独演会』のような、一人で観客に向かって語りかけるような、そういう雰囲気のように感じられます。

(『西野亮廣独演会』については、少し動画で見たことがあるという程度ですが・・・)

 

ここでポイントなのは、「より多くの観客(読者)に向かっている」という点です。

これは先ほど申し上げました「より多くの人のために」という、「価値」の定義に合致するものです。

自分でいうのもなんですが、丁寧語を取り入れているというのも、ポイントかもしれません。

 

「より多くの人へ」という姿勢が、「より読みやすい文章」になっている。そのように私は感じました。

もちろん、語りかけるような文章だけが有益というわけではありません。

科学技術においてはレポートや論文といったものが、多くの研究者に読まれ、引き継がれ、科学技術を連綿と進化進展させてきているということは、現代の、テクノロジーに支えられた世の中を見れば、一目瞭然でしょう。

その文章というのは、目的、手段、方法、結果、結論というように、論理的で、理系としてはわかりやすいし、読みやすいと言えます。

 

一方で、語りかける文章というものは、感情を、込めるわけです。

ステージの上から観客に届くように、声を張るのと同じです。

気持ちが伝わるように、感情を込めるのです。

そう、今、この瞬間、私は読点(「、」)を使っているのですが、これも息づかいや、間の取り方を表現する、感情の抑揚を表現する、ひとつの手法だと感じています。

 

・・・さて、今日のブログのタイトルである「有益化のために」ということですが、私の話は、少しは有益化のための「手がかり」になったでしょうか。

実は、当初は「収益化のために」というタイトルを考えていたのですが、少し露骨な気がしたので、「有益化」という表現に変えています。

 

もちろん、収益化できればなぁ、とはいつも感じていることではあります。

しかしながら、なかなか難しい。審査というものが通らない。

ですが、私がブログをやるのは、「お金儲け」のためだけ、というわけではないんです。

当初の日記でも言っていることですが、「何か自分の趣味と言えるものが欲しい」ということも大きかったわけです。(20191103の投稿)

ブログというアウトプットを通じて、「価値のあるものを生み出したい」という想いは当初からありました。

(ただ、最近では弟がやっていたように、だらだらとしたような感じも少しあったと思います)

 

つまり、私にとっては、すでにこのブログの存在というものは、趣味という点で有益だったわけです。

今回、その価値を、自分だけではなく、より多くの人が読んで楽しめるようなものに、少しでも近づけたのではないかと思っています。

(より【多くの】人が、というように、心ではアクセントをつけています)

 

これから、少しずつでも価値を高めていければと思います。

 

 

20191120_喋る

今日は何を書けばいいんでしょうかね。

毎日書いていれば、いつか収益化というものが、私にお金を届けてくれるというような発想、期待というのもあって、このブログは始まった側面もあります。

しかしながら、Amazonアソシエイトの収益化には通らず、Googleアドセンス独自ドメインがどうだと、よくわからないような状態です。

収益化ということは、現状ではあまり期待できないのです。

 

さて、今日のブログタイトルは「喋る」ということになっています。

当初は「ブログ革命」というようなタイトルで進めていたのですが、頓挫してしまいました。

革命という言葉がプレッシャーになって、ありのままの言葉を出せなくなってしまったのかもしれません。

そのあと私は「無題」というようなタイトルで日記を、あったことを淡々と書けばいいや、と思ったのですが、逆に開き直ってしまうことで、言葉がいきいきと出てくる実感がありました。

まあ、言葉としては自然であっても、文章としては構成がうまいとは言えないかもしれませんが。

 

今日はですね、中田敦彦氏のYouTubeセカンドチャンネルで「ラジオ」について言及があったんですよね。

それで、このブログのタイトルも「喋る」っていうことで、シンクロニシティを感じている今日この頃です。

中田さんの動画を観る前から、「喋る感じでブログを書く=ブログ革命」みたいなノリで書ければなぁ、という発想があったので、「動画に影響された」というわけでもないんですよね。同時多発的なんです。

 

それで本題に入るわけですが、「喋る」というのは何を言いたいかというと、ブログというか、日記というのを、「声を出す感じで」書けば楽なんじゃないかなぁ、ということなんです。

文章を書いてみて、書いた文章が音声として「脳内再生」されるような感じです。

 

そして大事なのは、「出てきた文章は、なるべくそのまま記事にする」ということです。

実は今日の日記は、いったん途中まで行ったものを、一からやり直している状態にあります。

これで自分に何が起きたかというと、せっかく強めてきた「言霊」がなかったことにされて、鬱の状態になってしまうような感覚になりました。

 

今のブログの文章の構成は、話ことばのように、構成としてはわかりづらいものになっています。

なので、今の文章もまた書き直したいというような気持ちもほんの少しありますが、もう夜遅いので体力的にも断念せざるを得ないところですね。

 

あとは、「人に伝える、発表する、プレゼンする」というような意識でやると、文章も自然と出てくるような気がしました。

プレゼンといえば中田先生ですよね。

彼は発表の練習を欠かさないそうです。

だからこそ、あんなにも魅力的な授業をすることができるんですよね。

 

中田さんレベルのクオリティを、残業帰りの自分に求めるわけにはいきませんので、私は私なりにできることをしたいと思います。

スタンスとしては「お客さんの前にあるステージの上から、皆に語りかける講演」という感じでしょうか。これはキングコングの西野さんを、個人的にはイメージしています。

 

お客さんからの見え方も気にしつつ、文章を書くだけ。

それだけでも、違ってくるのではないかと思った次第でございます。

 

 

 

20191119_祭りと魔法

今日のブログは何を書いたらよいだろうか。

毎回そう思います。

 

今日は魔法を使いました。

魔法というのは、呪文や儀式によって、力を得ることができるアレです。

私は今日は久々に23時過ぎまで残業を頑張りました。そして、いつものように自転車で帰っていました。

帰り道、家の近くには、普段は自転車を降りて、押していかないと辛いような坂があります。

私は祭りエネルギーを使う方法を昨日マスターしましたので、それを活用して、今日はその坂でも(自転車に乗ったまま)登り切ってやろうと思いました。

 

ポイントは、「自分のため」でなく、「自分以外の何かのため」ということです。

私は祭りを信じていましたので、「まつりというものの威厳のため」ということで、うまく乗ることができました。

そのときは呪文というか詠唱なしに、自転車登り切り魔法を使うことができました。

敢えて呪文にするなら、「あらわせ」という言葉でしょうか。

ちなみに、これは精霊に命令するのでなく、自分に言い聞かせるための言葉です。

 

そして、代償として、私は坂を登り切った後で、ひどく息を切らすことになりました。

魔法というのは、どこかにしわ寄せがいってしまうものですね。

祭りは勢いをもららしてくれるものですが、それによって得た恩恵は、何かしらの反動をもたらすこともあるようです。

 

「祭りエネルギーの利用」ということを企む場合には、注意が必要だと思いました。

ただ、純粋に「祭り」をするだけなら、問題ないのかもしれません。

 

 

20191118_祭りパワー

昨日あたりから、「まつり」というのがキーワードになっています。

案の定、「まつり」のおかげで、今日はいつもよりタスクをこなすことができています。

 

「祭り」というのは、一人でもできます。

例えば手を合わせたり(合掌)、天を仰いだりすれば、それは祭りになります。

ポイントは、「神を称えるため」「先祖に感謝を示すため」といような、「想い」です。

神様やご先祖様が見ているかどうかとか、そういうことは問題ではありません。

自分が何を想い、どう感じているか、それだけです。

神を称えたり、ご先祖様(親、祖父母も)に想いを抱くことは、愛情のエネルギーを蘇らせるのです。

 

そして、想いさえ、祭りの対象さえあれば、あとは行為は比較的自由です。

合掌でも礼拝でもなく、普通に筋トレや皿洗い、掃除や買い物など、日常でよいのです。

人間が前向きに行動するあらゆることは祭りとなり得るのです。

 

これは私は神やご先祖様といった存在を祭りの対象にしていましたが、祖父母、親、兄弟、姉妹、子供、配偶者、彼氏彼女、あるいは二次元のキャラクターでもいいのかもしれませんが、レベルが高いのはもちろん神であり宇宙であるので、自分はそちらを選んでいます。(神=宇宙の場合は、それ以下の存在対象にもエネルギーが還元されるのでいいですね。まだ独身で彼女もいないだけですけど)

 

何を祭るのか。どう想いを表現するのか。それを自由に、気楽にやるだけです。

 

 

 

 

20191117_テレパシーと祭り

「テレパシーは使えているかニャ?」

 

男性

「要するに擬人化ですか?身の回りのモノの気持ちになるというか。

あんまりうまくできないのですが・・・」

 

変人

「『祭り』じゃよ、祭り!乗っていくことじゃよ!

気分が乗ること、意が乗ることを『祈り』というのじゃ!」

 

男性

「なるほど、バシャールも『ワクワク』ということを言っていましたね」

 

・・・

 

男性

「やっと掃除が終わりました~」

 

「コツは掴めたかニャ?」

 

男性

「そうですね、最初はテレパシーと聞いて、モノの声を聴こうというような感じでやっていたのですが、うまくいきませんでした。

ふと『祭り』ということを閃いて、ワクワクする感覚を頼りに進めてみたんですね。

すると、掃除がうまくできたんです」

 

変人

「テレパシー、という言葉に気をとられておったのじゃな。

テレパシーというのは、間違いではないが、それは人間の感情移入が本質なのじゃ。

思いやりじゃな。

最初、モノの声を聴こうとしてうまくいかなかったのは、モノだけを見ていたからじゃ。

テレパシーというのは、外だけにあるものではない。

人間の感情の主体が、その人間だけにとどまらないというのと同じじゃ。

つまり、自他や内外といった分け隔てなしに、一体となってみなければ、心の声は聞こえないのじゃよ」

 

男性

「なるほど、最初は『モノのため』という意識でうまくいきませんでしたが、途中からは『自分の生活のため』という意識でやりました。

自分の生活のためというのは、自分だけの範囲にとどまらず、自分の周囲まで考慮する必要があります。

つまり、モノとの調和が必要なことで、自分の生活を輝かせるということが、自分のためであると同時に、モノのためということにもなるわけですね」

 

変人

「そうじゃな。その境地においては、もはやモノの声というものは聞こえていなかったはずじゃ。

ひとつになっていたからのう。

ある側面、ある瞬間においては、モノの声をきくこともあったのじゃが、それをテレパシーと表現することもできるというわけじゃ」

 

「レイアウトを変えて、本来あるべき姿になったのニャ。

広々として嬉しいのニャ」

 

変人

「そう、祭りなのじゃ。

祭りというのは、生活をいきいきさせる行為なのじゃ。

それは掃除でもあり、音楽でもあり、舞踊でもある。

それは家やモノ、空間や時間への感謝であり、喜びの表現、あるいは実践なのじゃよ」

 

男性

「ちょうど、中田敦彦氏も動画で『祭り』について語っていました。

私が、掃除が終わってブログを書こうかというタイミングで、まさにシンクロニシティです」

 

変人

「テレパシーというと語弊が出るかもしれんので、今後は祭りという表現がよいじゃろう」

 

男性

「そうですね。

祭りとは神への感謝であり、存在への感謝であり、喜びの表現であり、生活そのものであり、幸福の定義です」

 

・・・

P. S.

当時のツイッター

 右上の青い鳥ボタンでスレッド表示ができると思います。

 

20191116_スマホと人間

「人間は、先の見えない状況を楽しんでいるのかニャ~?」

 

変人

「そうかもね~。ゲームとかスポーツとか、結果が見えていたらつまらないよね」

 

「不確定性というか、不安というか、そういうものに熱狂するのかニャ~。

確かに、前の日記でも『緊張と緩和』あるいは不安定と安定というものが魅力につながるということを書いていたみたいだけど、似てるかもね、似てるかもニャ」

 

変人

「ああ、書いたね。あと、動画とか広告とか、そういうものって不安を煽ったり、気になったりする文句で誘惑しているんだよね。

スマホというのは、人間が依存しやすいような仕組みがいっぱいなんだよ。

SNSとかメールとか」

 

「未知の塊なんだニャ~。

スマホを使う人間ほど、スマート(賢い人)に見えないのニャ~。

問題なのは、そのせいで人間が『うつ』になっていることニャ~」

 

変人

「そうだね。そういう緊張や興奮で生きてきた人間は、それらがなくなった、不要となったような状態になると、活力を失うというか。

もしかしたら認知症とか、そういう状態も似ているのかもね。

ワーカホリックとかも関係あるかなぁ」

 

「人間が自分で未来を選ぼうとしないのは、諦めなんじゃないかニャ?

自分で選んでいないとか、不本意な現状だとか、そういうのを受け入れて、消化しきれていないみたいニャ」

 

変人

「『言われたことをする』っていうのとは、また違うんだね。

その『受け入れる』というか『自分で決める』というのは」

 

「自分で決めていたら、志していたら、不安定な未来はむしろ嫌になるはずニャ」

 

変人

「まあ、学校教育の時点で、創造性は奪われていますからねぇ」

 

「今『好きなことで生きていく』っていうのは、そういう現状の反動かもしれないのニャ」

 

変人

「でも、世界が『本来あるべき状態』じゃないから、魂が嘆いているんだね」

 

「あきらめているのかニャ?」

 

変人

「あきらめている?ああ、そうか、あきらめた人間が、不安に依存するのか。

よし、俺はあきらめないぞ」

 

自己実現かニャ?具体的にはどうする」

 

変人

「とりあえず、ブログかな。引き続き。

そして、部屋の掃除。これも引き続き。

あとは、世界と相談する」

 

「人間もテレパシーを使うといいのニャ」