20191117_テレパシーと祭り
猫
「テレパシーは使えているかニャ?」
男性
「要するに擬人化ですか?身の回りのモノの気持ちになるというか。
あんまりうまくできないのですが・・・」
変人
「『祭り』じゃよ、祭り!乗っていくことじゃよ!
気分が乗ること、意が乗ることを『祈り』というのじゃ!」
男性
「なるほど、バシャールも『ワクワク』ということを言っていましたね」
・・・
男性
「やっと掃除が終わりました~」
猫
「コツは掴めたかニャ?」
男性
「そうですね、最初はテレパシーと聞いて、モノの声を聴こうというような感じでやっていたのですが、うまくいきませんでした。
ふと『祭り』ということを閃いて、ワクワクする感覚を頼りに進めてみたんですね。
すると、掃除がうまくできたんです」
変人
「テレパシー、という言葉に気をとられておったのじゃな。
テレパシーというのは、間違いではないが、それは人間の感情移入が本質なのじゃ。
思いやりじゃな。
最初、モノの声を聴こうとしてうまくいかなかったのは、モノだけを見ていたからじゃ。
テレパシーというのは、外だけにあるものではない。
人間の感情の主体が、その人間だけにとどまらないというのと同じじゃ。
つまり、自他や内外といった分け隔てなしに、一体となってみなければ、心の声は聞こえないのじゃよ」
男性
「なるほど、最初は『モノのため』という意識でうまくいきませんでしたが、途中からは『自分の生活のため』という意識でやりました。
自分の生活のためというのは、自分だけの範囲にとどまらず、自分の周囲まで考慮する必要があります。
つまり、モノとの調和が必要なことで、自分の生活を輝かせるということが、自分のためであると同時に、モノのためということにもなるわけですね」
変人
「そうじゃな。その境地においては、もはやモノの声というものは聞こえていなかったはずじゃ。
ひとつになっていたからのう。
ある側面、ある瞬間においては、モノの声をきくこともあったのじゃが、それをテレパシーと表現することもできるというわけじゃ」
猫
「レイアウトを変えて、本来あるべき姿になったのニャ。
広々として嬉しいのニャ」
変人
「そう、祭りなのじゃ。
祭りというのは、生活をいきいきさせる行為なのじゃ。
それは掃除でもあり、音楽でもあり、舞踊でもある。
それは家やモノ、空間や時間への感謝であり、喜びの表現、あるいは実践なのじゃよ」
男性
「ちょうど、中田敦彦氏も動画で『祭り』について語っていました。
私が、掃除が終わってブログを書こうかというタイミングで、まさにシンクロニシティです」
変人
「テレパシーというと語弊が出るかもしれんので、今後は祭りという表現がよいじゃろう」
男性
「そうですね。
祭りとは神への感謝であり、存在への感謝であり、喜びの表現であり、生活そのものであり、幸福の定義です」
・・・
P. S.
当時のツイッター。
右上の青い鳥ボタンでスレッド表示ができると思います。
まさか中田敦彦氏のキーワードも「祭り」だったとは!シンクロニシティですね
— ヒト (@hito20191103) November 17, 2019
祭りがブーム!魂のビートが鳴り止まない https://t.co/RfpM9VUu0I @YouTubeより